尊厳死法制化の論争が明らかにしたこと(2011年の論文)

エッセイ

尊厳死法制化の論争が明らかにしたこと(筋萎縮性側索硬化症患者を中心に検討)   2011年2月24日

著者 渡辺佳夫
所属  ベタニヤ内科・神経内科クリニック(院長)    〒514-2221 三重県津市高野尾町大谷2406-8

要旨
尊厳死法制化をめぐる論争で明らかになったことは、自己決定のあり方、法整備できない法務当局の事情、医師の違法性阻却の問題、宗教を盛り込めない議論、我が国の特殊事情などである。これらを患者本人の状況、および家族・介護者・医師が直面する問題の観点から検討した。具体的には、意思が揺れ動く中での自己決定、リビングウイル作成のタイムリミット、本人の意思を最上位の価値として受け入れる難しさ、医療現場で求められる倫理・公正等である。その結果、本人の主体性がポストモダンと言われる現代において希薄であることが、核心的テーマであると考えられた。自己決定する際、自律的主体と他律的客体が分裂・対立する中で、自律性が優先されてその人らしく意思決定できるところに真の主体性がある。医療現場にいる我々に求められるのは、法制化の如何にかかわらず、接する患者一人一人に真実があることを見出し、主体性ある決定ができるようにサポートすることだ。
検索用語:リビングウイル、自己決定、ポストモダン

はじめに

筋萎縮性側索硬化症(ALS)は、重篤な筋の萎縮と筋力低下をきたす神経の変性疾患である。有効な治療法は確立しておらず、人工呼吸器装着がなければ発症後数年で呼吸筋麻痺により死亡する。近年、人工呼吸器を装着したまま、在宅で過ごす患者が増えており、現場の過酷な状況が報告されている。
2004年8月、母親がALSだった長男(当時40歳)に懇願され、人工呼吸器の電源を切って窒息死させた。その後、嘱託殺人罪で執行猶予付きの判決をうけたが、夫によると、「妻は長男殺害後、自殺を図ったが死にきれず、生き残ったことに悩んでいた」。2009年10月、「長男の所に行きたい」と懇願する妻に夫は、「何を言っても無駄」と考えて刺殺した。2009年11月、横浜地検は夫を嘱託殺人罪で起訴した。
この痛ましい事件に接し、ALSにたずさわる多くの関係者は二度と繰り返してはならないと願ったに違いない1)。延命中止事件の都度、尊厳死について一般社会人の関心を呼び、社会学者・患者を支える会・哲学者など様々の分野の専門家からは、多くの制度改革の必要やそれへの警告がなされた。制度改革のひとつである尊厳死法制化は、1976年米国カリフォルニア州において自然死法(Natural Death Act)という名称で初めて成立し、その後、欧米では次々に法制化された。我が国では尊厳死協会が議員立法によって近々の法制化を目指しているが、法制化賛成派と反対派間の論争は続いており、終息する兆しがない。
介護現場の最前線に立つ我々にとっても、尊厳死は無視できないテーマになっている。そこでまず尊厳死法制化の論争で明らかになってきたことを整理し、次にそれらを踏まえつつALS患者本人が置かれている状況や、家族・介護者・医師に問われていることを検討する。そしてALS患者を診る一人の臨床医として、我々が今後、尊厳死法制化に対していかに向き合うべきか提言する。

尊厳死法制化論争が明らかにしたこと

尊厳死法制化について2008年12月、日本尊厳死協会の井形理事長が厚労省の「終末期医療のあり方に関する懇談会」において次のように表明している。リビングウイル(LW)を国民全員が理解することが望ましい。そのなかで本人が自分の責任で延命措置を拒否したい希望を持っていてLWで明示しているのに、第三者の倫理観で延命を強制することがあってはならない。協会は尊厳死の法制化を希望する2)。
これに対して、「尊厳死法制化を阻止する会」や、その他の反対する方々は次のような警告を発している。命ある限り精一杯生きぬくことが人間の本質であるのに、法制化されればQOLが低下した状態では、「生きるに値しない」という社会的な無言の圧力を生み出しかねない。優生思想を助長させ、「生存するに価値のない生命」と決めつける考えが広まる恐れがある。生命を絶対的に尊重しようとする人々の思いを減退させる等など。
井形理事長はこれらの意見を受けて、「協会が求めているのは本人意思の尊重である。すべての死に尊厳死条件を押しつけることはあり得ない。本人の意思で延命措置を希望する場合にはこれを尊重し、全面的に支援するのは当然である」と説明している3)。
このように尊厳死法制化を実現させたいと願う人達と阻止したいと願う人達の間で、今まで多くの論争が繰り広げられてきた。そこで明らかになってきた問題はまことに多岐にわたっており、すべてを網羅することは難しいが、私は次のように整理する。
① 最終的な意思決定に導くものは何か
法制化賛成派・反対派の双方の論争を聞いていると、主に賛成派は個人の権利として認めてほしいという願いが根底にあり、反対派は社会的・倫理的な問題としてとらえようとしている。両派の議論がかみ合わない原因のひとつはここにあると思われる。確かに人間の生命や存在に関わることのため、生命倫理・哲学・宗教等々まで言及せざるをえなくなり、的を絞れなくなる。だがもし個別的に議論したなら、その結論は多様な状況にある現場での実際的効力を持つのが難しくなろう。本人の意思決定に身体的疾患そのものが決定する場合もあり、人格・人間関係・職業・宗教・生きる信条・社会道徳・倫理・・・などが決定する場合もある。この巨大な複合体ともいえる個人が、また家族をふくむ共同体が、何をよりどころにして最終的な意思決定をするのだろうか。→(6),(11)で検討
② 法的問題
ALSの場合、呼吸不全に陥った状態で人工呼吸器を装着しなければ、目前の死を受け入れることになる。そのため、呼吸器を装着しない方々にとってはその時が終末期である。しかし、呼吸器を装着した方々は、それから5~10年、場合によってはそれ以上、生き長らえることができる。理解力・判断力は保たれており、眼の動きによるコミュニケーションが可能であるので、この状態を終末期とするには、かなりの抵抗を覚える方が多い。ALSにおける終末期の定義を共通の認識として確立できていない。
そのため、ここに必ずしも終末期といえない時期に患者が取り外しを求めた時、医師は患者の自己決定権行使に従うべきか、また従った場合においての法的問題が生じてくる。尊厳死が法制化されていない現状では、医師が患者の意思に従った場合、刑事責任をふくめて法的責任が問われる。LWはまだわが国では一般化していない。LWを残していない人の終末期、本人の意思が不明な場合、厚生省の終末期医療の決定プロセスに関するガイドラインでは、家族が本人の意思を推測して本人の代行をする。しかし本人の意思を家族が正しく代行できるか否か、疑問である。→(6),(8),(9)
③ 現状維持を求める法制化反対派
尊厳死法制化を阻止する会は、さまざまな観点から法制化に警鐘を鳴らしており、尊厳死協会の主張に対するアンチテーゼとして現れてきたと私は受け止めていた。しかし、双方に徹底した議論ができているとは思えず、特に反対派は改革案を提出できていないところに物足りなさがあった。阻止する会についてある哲学者は次のようにコメントしている。この会は尊厳死法制化阻止を訴えているが、その違法化までは活動していない。医療現場での尊厳死選択の完全禁止という果敢な発言をもしすれば、世間から大きな反撥を受けることになる。会が目指していることは現状維持だ。・・・ここにこの会の思考の矛盾がある4)。
反対派は社会的弱者・少数派の権利擁護の立場にあり、ここに現状維持を希望せざるを得ない彼らの事情がある。反対派がその立場にとどまる限り、両派によるアウフヘーベン(高揚)は期待できない。ここでは賛成派が法制化運動を進めながら、反対派の意見をいかにくみ取ることができるかが問われているのではないだろうか。→(7),(8),(9)
④ 法的整備できなかった法務当局
2004年3月の日本医師会医事法関係検討委員会は、終末期医療をめぐる法的諸問題についての報告において、次のように強く指摘している。「1992年3月の日本医師会第Ⅲ次生命倫理懇談会、あるいは1994年5月の日本学術会議死と医療特別委員会報告において、患者の意思を最上位におき、終末期医療において患者の明白な治療不開始・中止の意思表明があるなら、これを許容すべきであると主張したにもかかわらず、法務当局者は終始沈黙をまもりこれに応えてこなかった」。この委員会がすでに1992年に患者の意思・患者の自己決定権を「最上位の価値」として掲げていたにもかかわらず、それを法務当局が受け入れなかったのはなぜだろうか。「はじめに」で提示したような悲惨な事例は、尊厳死が実施できていれば回避できたと思われる。我々は現場でこれほどでなくても、「もしかして・・・」と危惧される事例を毎日のように見ている。尊厳死法制化のために長期にわたって論争を続けてきたが、そのような現場の患者・家族の実情をそのままにして、なお今後もこの議論を終結させないでいる理由は何だろうか。→(3),(6),(9),(11)
⑤ LWを作成する本人を支える我々の立場の難しさ
患者をささえる医療・看護・介護職の我々は、本人・家族と長期におよぶ関わりをもつ。そして本人が主体的に意思決定できるように助けねばならない。そこで注意すべきは、公正に対応すべき我々が、自らの死生観や生や死について確信していることに基づいて、不用意に本人の意志決定に介入してしまうことがあることだ。ここに医療現場のジレンマがある。我々の信念は他方からみれば、やはり個人的なものであり、いくら標準的であると確信しても、それが正しいと保障してくれるものはない。自己決定、自己責任、主体性などについて、我々はどのようにして共通の認識に立つことができるのだろうか。→(1),(2),(6),(7),(8)
⑥ 信仰・信念・死生観を盛り込めない議論
本人が終末期医療について意思決定することができる場合、その根拠となるのは自らの信仰・信念・死生観ではないだろうか。患者達はLWや事前指定について家族や我々と議論する前にすでに、自らの意思を決定していることが多い。しかし、これほど個人にとって重要なものであるにもかかわらず、我々は終末期論争において自らの信仰・信念・死生観を積極的に語ることはほとんどない。このようなスピリチュアルな内容は、生と死をテーマにする話し合いに深みを与え、不可欠だと思われるが、なぜあえて避けるのだろうか。宗教的要素のために避けたい気持ちが我々に共通に作用しているためだろうか。論争に信仰による意思決定を持ち込むと、憲法に保障される基本的人権の問題になり、論争が停止してしまうためなのか。→(10)
⑦ 尊厳死法制化が遅れる我が国の特殊事情
欧米ですでに尊厳死法制化が実現しているのに、我が国においてなされていない。終末期ケア環境は我が国では立ち遅れており、2010年の総合評価は世界で23位であった5)。オーストラリアでは50歳を過ぎたら、遺言、代理人、後見人、事前指示書を用意することが推奨されている。これほどの違いがある根本的原因は何だろうか。私は欧米に追従すべきだと主張しているのではなく、我が国に特殊事情があるのであるなら、是非とも知りたいと願っている。日常的に死を語らない日本の文化のためか。国民一人一人の権利意識が乏しいために自己決定が定着していないからか。個人が決めないから医師の論理が優先し、患者の主体的選択が抑え込まれているのだろうか。→(5),(8),(10),(11)

以上の尊厳死法制化に関わる問題を踏まえつつ、次に本人・家族・介護者・医師の現場から見てこれらの問題を検討する。

患者本人がおかれている状況

(1) 本人の悲しみ

私は長年、ALSの診療にたずさわってきて痛切に知らされることは、本人の「悲しみ」である。嚥下障害や手足の脱力で発症するが、インターネットが普及する現代、「筋力低下 神経疾患」で検索すれば、容易にALSという疾患名を見出すことができる。初診の時にすでに自ら診断を下して来院した患者に出会う神経内科医師は少なくない。その方達の身になって考えると、受診する前から、「もしこのまま悪化していけば自分はどうなるのだろうか」と思い悩んだことだろう。その後、一ヶ月毎に明らかな変化をきたし、「階段をのぼれなくなった」、「仕事ができなくなった」、「車椅子の生活になった・・」と症状が明らかに進行していく。本人・家族がいたたまれない気持ちに見舞われ、そしてその都度、厳しい現実を深い悲しみとともに受け入れたに違いない。我々介護者が本格的な介護に入るかなり以前から、本人・家族はすでに深い悲しみの底に突き落とされている。私が常々、疑問に思うのは、緩和ケアやカウンセリング、スピリチュアルケアがいかに充実しようと、この悲しみのいかほどを癒すことに役立つのだろうかということだ。
もし、我々に本人の悲しみにどのように向き合えばいいのか、心構えになるものがあるとしたら、私は次のことを介護者とともに分かち合いたい。「ALSによる痛みと苦しみのほとんどは、本人が背負っていく。我々が1%でも苦しみを軽減するのに役立てば、それでよいとすべきではないか。」私はこのような話を懸命に介護しつつも、本人・家族から不満を訴えられ悩んでいた介護者に話したことがある。私が介護者に伝えたかったことは、緩和ケアの過小評価ではなく、本人の悲しみはそれほど深く大きいということだ。我々が踏み込めない患者・家族の世界があり、また癒すことのできない悲しみがあることを認識しての緩和ケアでありたい。
柳田邦男は、「悲しみ」への対処について次のように語っている。悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、清々しく明日を生きるエネルギー源になる・・・悲しみの感情を教育の場でも社会的にも正当な位置に復権させることが必要だ6)。また竹内精一は、日本人の悲しみの受け止め方について、国木田独歩や本居宣長の作品を通して、悲しみにしっかり向き合うことで、悲しみの先に行けるのだと説明している7)。
我々介護に携わる者は、患者・家族の悲しみを軽減させることはできないかもしれないが、人が悲しみに沈むことの意味を認識し評価できるものでありたい。スピリチュアルケアに、患者への傾聴と「共にいる」ことが不可欠である8)が、私は悲しみをしっかり受け止めることができてはじめて、そうしたベーシックケアが可能になると信じている。そしてその後に悲しみや苦しみに関心を持てる我々を、患者は理解者・援助者として見てくれるだろうと期待することができる。

(2) 自己決定能力を見極める難しさ

ALSの患者を診る医師達が共通して直面する難しい問題であり、私は個人的に次項(3)とともに法制化に伴う核心的テーマであると考えている。
私が経験した患者さんであるが、彼は人工呼吸器装着を強く拒否し、家族も本人のLWおよび事前指定指示書に記された本人の意志を尊重し同意していた。しかし、病気の進行とともに、呼吸不全が悪化し、本人は「息苦しい」としばしば訴えるようになった。見かねた家族が「この状態から逃れるには人工呼吸器しかないよ、つけようか」と問いかけたところ、本人がうなずいた。家族は本人が簡単に意思を翻したことを意外に思いつつも、救急車を呼び病院に搬送した。そしてただちに気管内挿管され、人工呼吸器による管理がなされた。数時間後、本人は目の動きによって家族に伝えた、「なぜ、つけたか」と。家族が「あなたが同意したから」と言っても本人は「それはない」と怒りをあらわにした。
これは本人の呼吸不全が悪化した際、CO2ナルコーシスや低酸素脳症で記憶力・判断力が低下していたためだと推測される。この患者は、病院の主治医から呼吸器を外せば亡くなる可能性がきわめて高いので外せないと言われ、そのまま本人の意思に反して2年間、肺炎で亡くなるまで人工呼吸器よる呼吸管理がなされた。
我々がここで注目すべきは、外見上、意識が清明に見えながら、実は判断力が低下していたことだ。ALSの場合、これはしばしばあり得ることであり、したがって「ALS患者は終末期においても意識は保たれる」との指摘は必ずしも正確ではない。この患者の場合、病院に搬送される3ヶ月前の動脈血ガス分析の結果は、炭酸ガス分圧が112.5Torr(正常:35~45Torr)、酸素分圧が55.0Torr(正常80~100Torr)であったにもかかわらず、外見上は意識清明に見えた。しかしコミュニケーションは表層的な内容であり、私がLWに関する説明をしても、文字盤と目の動きによるコミュニケーションで、「わからない」とだけ返答してくれた。
つまり本人の判断能力を見極める難しさのために生じる問題とは、事前指定指示書で明確に人工呼吸器を装着しないと明記しても、意識清明に見えればいつでもそれを撤回できるということであり、その結果、本人の意思と異なる処置がなされてしまうことだ。
ところが終末期に本人が息苦しがっている医療現場で、担当医が本人に負担を強いるような理解・判断能力テストはできない。詳細は記さないが、「呼吸器をつけたいですか?」の問いかけとともに、「呼吸器をつけなくてもよいですか?」と問い、両方にうなずいたなら判断力なしと判定するとか、日々の必要に迫られて行われる必須のコミュニケーションによって判定する等、準備しておくことが必要だろう。

(3)  揺れ動く自己がいかに自己決定できるのか

自己決定については前項に示した以外に、次のような問題がある。一人称が複数存在してきて、最終決定する本人の所在が不明瞭になることだ。たとえば今ここに、家族に充分な説得力をもって延命処置を拒むという自分のLWを作成した本人がいたとしよう。その本人が、脳卒中等の病気の進行とともに、理解力が低下してかつて作成したLWの意味を理解しない自分になった。この時、当初のしっかりした本人とは別に、現在の弱々しい本人がいる。しっかりしていた本人のほとんどが失われても、現在、確かにかつての本人の一部がここに生きている。この時、意思不明な今の本人の生きる権利はどのように保障されるかという問いである。
つまり終末期に本人の意思をいかに守れるかの問いは、もっと基本的に「意思決定する自分を、どこの自分に決定するか」という問題になる。欧米ではLWを作成した時点の本人が最終決定する本人であると特定し、法律がそれを守っている。それが不明瞭なわが国においては、本人を特定しないところに、終末期の自己決定権の議論が混乱する要因の一つがあると思われる。
さらにこの自己の存在を確定できないという問題は、今の本人そのものが移ろい易いという人間の本質にも起因する。哲学者の白鳥春彦は次のように語っている。われわれは、一般に一人物に一性格あるいは一性向のみを与えたがる。しかし、自分をかえりみればわかるように、人間の中には計り知れない複雑さがある。それはどんな偉大な哲学でも覆ってしまうことはできないだろう9)。
人間というのは健康なときでも、絶えず思考は変化し確信は容易に覆されながら生きている。自己が絶え間なく変化するのは、たとえばたった今、自分の中に家族を思いやる気持ち、心身の苦痛、経済的問題の悩みなど、幾種類かの思いがあって、ある時は家族の意向を尊重する自分が、ある時には苦痛のために耐えられないと訴える自分が現れるからなのだろう。
ここでさらに私は実際的な医療現場の問題に、思弁的とも受け止められる哲学的・社会学的思考を取り入れることはできれば控えたいが、自己の存在に関わるテーマではやむを得ないと考える。まず我々がこの社会の中で、どのように影響されながら意思決定をしているのかの問いから考えたい。
人間の多様性や可塑性は昔から指摘されてはいたが、現代人は新聞、テレビ、インターネットなど、情報の洪水に中に身を置いており、それからの影響を受けやすい傾向はいっそう顕著になっている。この「揺れ動く自分がいかに自己決定できるか」は、まさに「ポストモダンの中でいかに自己を確立できるか」の問いに等しい。(ポストモダンPostmodern:主体・進歩主義などといった啓蒙の理念に支えられた近代主義が終焉し、個別的な小さな物語が多種多様に生み出される時代・現在のこと。)
現代の社会学者S・ホールは、私たちが自己のアイデンティティとよぶものは、疑いもなく環境、感覚、歴史、会見といたものの特定の混合を通じて変貌していく10)と述べている。
社会学者アルベルト・メルッチも次のように語っている。加速する変化のリズム、個人が引き受ける役割の複雑性、私達に浴びせられるメッセージの大洪水は、私達の認知できる経験と感情的経験を人類史上、類のない規模に拡大した。・・・私達は多様な役割を要請してくる社会関係の高度な文化、氾濫する象徴的意味がもたらす無数の選択肢の増殖のなかで、「複数的な自己」であることを余議なくされる。その結果、アイデンティティと自律の理念は衰微することになった11)。
このような多種多様の情報が渦巻く社会から、我々は逃れることはできない。ポストモダニズムの考え方によれば、キェルケゴール、ヤスパース、ハイデッガーの実存論は我々にとってほとんど意味がないことになる。つまり仮にその哲学に魅かれ、その中に自らの人生の指針を見出して生きる決意をしたとしても、その思想に魅かれたこと自体が単なる出会いにすぎず、明日、別の考えに乗り移らないという保証はないと考えるからだ。だから我々は次のことを常に突きつけられている。情報の波間に身をまかせてサーフィングするか、モダンにあるいはプレモダンに回帰するか、複数の自己を同時に生きるのか、・・・etc。
我々はこの世に生きる限り、ある日ある時、結局はひとつの生き方をせざるをえない。もしひとつを選択する際に混乱があるなら、これについて社会学者マリア・ミースは、自己決定は自律的主体と他律的客体が分裂・対立関係のなかで成立している12)と語った。
同様なことを哲学者キェルケゴールも「死に至る病」などの著書で説いている。「我々は市民として不条理なものに満ちている社会の中に投げ出されている。しかし、そこでただ生きるのではなく、自ら態度を決定し、自己を決定していく主観的・具体的に生きることが大切だ。・・・この自らが決定していく動的な関係、また緊張と表現した状態では、自己は決して自己自身の世界に留まるだけでなく、同時に自己を措定した他者に関係することで均衡を保つ。」
P.ドラッカーは現代の経営の父と呼ばれ、著作が近年、我が国においてベストセラーになっている。青年期にキェルケゴール哲学に出会い、経営学思想の基盤になった。彼はキェルケゴールの考えを次のように解説した。市民として生きる時間と、精神における永遠とは次元が異質である。この矛盾ともいえる時間と永遠を同時的に生きるという緊張状態においてのみ、人間の真実な存在としての実存が成立する13)。
つまり、今のこの時、病める身体をもちつつ現場で生きる一人の市民としての自分がいて、一方でその自分が精神世界の中で永遠を見つめている。もし、前者だけならブラウン運動のようにその日その日、めまぐるしく変わる自分になってしまう。また一方、精神における永遠を見つめる自分だけなら、現実の今の自分が疎かになってしまう。
この相反する自己決定のあり方は、尊厳死法制化の論争と似ている。一人の市民として尊厳ある死を望む自分がいる一方、その自分が所属する社会は一般論・倫理学・道徳的・・・観点から尊厳死をみている。もしここで、一人の自分が同時にそのいずれにおいても生きたいと願い、自らしく生きることを切に願い実現を目指すなら、そこに他者との緊張が生じ、対立・抗争のただ中に引き込まれる。
本人・家族・友人・介護者・主治医・・・が、構成するこの巨大な複合体の中でいかなる激論をしようが、その行きつく先の最終的決定に大きな意味はない。大切なことは本人がそこで多くの考えや思想にふれて悩み、迷い、葛藤し、共同体の中で分裂・対立をきたしながら、自らが意思を決定するプロセスである。そこにドラッガーの言う「人間の真の存在」があるということだろう。
09年2月2日のNHK総合テレビ・クローズアップ現代「私の呼吸器を外して~」において放送されたALSの患者照川氏の事例は、まさに「人間の真実の存在」を我々に教えてくれた。本人に同意した家族、とまどう我々、議論つくして苦渋の決断を下した病院の倫理委員会、それを差し止めつつ「制度改革が必要」だと公言した院長・・・我々の誰が正しく間違っているのかではない。各事例なりにそれぞれに真実があるのであり、照川氏の場合もその事例ならではの起承転結があるに違いない。
医療現場において分裂・対立があると、我々日本人はそれを低く評価する傾向がある。しかし、そうではなく、自己を措定した他者との関係がある限り、自己決定内容にネガティブな評価が下ることにならないこと、そして社会的な合意より個人の権利や共同体としての意思決定プロセスの方が尊重されるべきことを再評価したい。これがキェルケゴールの言う「普遍的・必然的な本質的存在に相反する個別的・偶然的な現実的存在の優位性」の意味だろう。
ポストモダニズムの中で人間の真の存在を追及すると、「その瞬間にモダニズムに回帰する」とか、またポストモダニズムを踏まえてとらえると「多様性のひとつの形態になり、何も語る意味が無いといった徹底した虚無主義に陥ってしまう」という批判が生まれる。そして、この時代の今、いかに主体性を保つかの問いかけに多くの社会学者は返答できずに立ち尽くしている15)。こうした社会学者の議論は尊重するが、しかし現場に立つ我々にはその議論に参加し続けられない事情がある。それは医療現場では、何事も実際的・現実的であり、時間的存在であることを突きつけられているからだ。
終末期の本人は、短い寿命しか残されていないという期限と、かつ判断能力を持っている間にという制約の中で、事前指定をあらためて確認し更新しなければならない。本人に関わる家族や我々は迫りくるその時を意識して、たとえ分裂・対立が生じても納得できないまま本人の意思に同意することもあるだろう。尊厳死法制化後、終末期の現場では、本人の移ろいやすい曖昧な主張よりは、本人が文書で残したLWが、事務的かつ現実的に処理されることが多くなるではなかろうか。次項でこのLWを再度、整理して検討してみる。

(4)  LW作成にあるタイムリミット

私が受け持ったある患者は、気管切開を受けるために入院したが、病院の担当医から「LW作成はまだ早いから、ゆっくり考えたらいい」と言われた。しかし在宅医療に移行した1~2ヶ月後にはすでに病状は進行し、LWや事前指定指示書の作成の必要を本人に説明しても、「難しくてわからない」と断られた。ALSは進行とともに、日常動作がきわめて不自由になり、ほんの些細な事でも多大な努力を要する。このためか、一般的に彼らは終末期に近づくにつれて思考は正常でもその量や質が減退する。この方の場合でもその後、心理的に主介護者の妻に依存し、妻の姿が見えなくなっただけで幼児のように不安を訴えるようになった。
この事例はLWを作成には、タイムリミットがあることを示しており、医療現場ではこのような患者は決して少なくないと推測する。LWを作成しない場合、もしくは作成しても効力がない場合にはさまざまな原因があり、整理すると我々の行動パターンは、概ね以下のように分類されると思う。
LWを・・・
《1》 知る機会がなかった。
《2》 知る機会はあったが、避けていた。
《3》 前もって知っていたが、
(1)本人が理解できなかった。
(2)本人が理解する意思を示さなかった。
(3)本人が理解できたが
① 明確な意思で同意しなかった。
② 反対の家族を尊重し同意しなかった。
《4》 LWを理解・同意し作成したが、
(1)本人・家族がある根拠により削除した。
(2)本人の判断力が低下し本人が否定した。

どのグループに属するかは、本人の置かれた状態によるが、私が個人的に困難を覚えるのは、《2》の場合だ。我々人間は実に多様な存在であるため、患者の中には自己決定しないと意思表示する者や、主体性をもって生きる生き方を選ばないとしか受取れない患者に接することがある。尊厳死協会の井形理事長が言うように、「各人の権利が保障される」ことが大切であるなら、そのような他者に依存し、限りなく自己の存在を縮小させていっても、それを本人が選択するなら、一つの生き方として受け止めねばならないのだろう。
しかし提言でふれるが、将来においてはこのような生き方をすることは、(事例にもよるが)時代が我々に要求してくる厳格さのために、本人・家族・そして介護にたずさわるすべての者にとって困難になるだろうと予想する。

(5) LWで家族への思いやりを示す作法

我々日本人は、自らの意思決定に際しては、家族や本人をささえる人達との豊かな関係の中で決められるべきだと考える方が多い。これは特に高齢者においてその傾向は強い16)。そのように考える方々にとって、尊厳死協会のLWの文言は本人からの一方的すぎる意思表示であると受け止められることがある。
日本尊厳死協会はLWの原案作成にあたり、欧米の様式を参考にしたと思われる。世界のリビングウイル17)には、諸外国のLWが記載されているが、実に簡潔明瞭である。それは欧米では法制化されているために、法的事項のみが明記されているからだろう。法制化されていない我が国ではそこが理解されていないため、違和感をもって受け入れる方が多いと思われる。また我が国では、「死」について日常的に語る文化が根付いていないために、本人の死生観や遺言について語る機会が少ない。そのため、LWに法的意味以上の願いを期待してしまうことがあるからだろう。
そこで現状においては、LWの主旨とは関係ないが、その作成に際して日本人的な思いやり・配慮を主文に添えることは必要ではないかと思っている。法制化されていない我が国では、LWを作成する際、各自が納得する方法で意思を残せばよいし、それぞれが法的に有効な形式を踏まえる限り問題ないだろう。エンディングノートにLWや事前指定に加えるのはその一つと思う。
日本人的な思いやりや配慮とは、次のようなものはいかがだろうか。延命処置を拒む場合、「延命治療を拒み、目前の死を選択するが、それは家族との別れを求めているのではない」、「天国から皆を見守りたい」、「現世の私が消えても胸の内に私は生き続ける」等など18)。逆に延命処置を希望する場合では、「私が植物状態で生き長らえていても、皆のそばにいられることは嬉しい。しかし、日々の私への介護は皆にとって時に辛いものとなるに違いない。そこでまだ理解力・判断力の充分に残されている今の私自身が皆に伝えておきたい。もし介護につかれたなら、ためらわず私に向かって『疲れた』と打ち明けてほしい。私は植物状態になっても私自身はあなた方の胸の内に生き、そしてあなた方とともに成長している。もし、皆の心の内に人工呼吸器を止めてあげたいという気持ちが生じたのなら、それは私からの声だと思ってほしい」等など。
大切なことは、家族や身近な者達を思いやり、自らの意思をわかりやすく説明することだ。ある哲学者が自身のブログに、「病院で死んでいく末期患者にも、心得あるいは作法というものがあってしかるべきではないかと考えている」19)と述べている。このように、終末期に本人をささえるすべての者達に感謝と思いやりを示す、人生の最終章を他人任せにしないで自ら作成する、自分らしさを最期に残す等などのように、自らの願いを盛り込み、それを明確に書き残すことが作法につながると考える。

家族・介護者・医師に問われていること

(6) 本人の意志が「最上位の価値」である理由

平成16年、日本医師会医事法関係検討委員会が「終末期医療をめぐる法的諸問題について」の答申において、患者の意思・自己決定権を「最上位の価値」と表現した。しかし、その根拠については明記していない。そこでなぜそう言えるのか考えてみた。
ALSの実母を看取った娘が「デンマーク並みの介護環境を勝ち取るまで待っていてください」と語った20)。つまりALSの患者達に対し、今の介護体制に不備は多いだろうが、呼吸器をつけ辛さに耐えてほしいということだ。私は、「いかに辛くても生きてほしい」と娘が実母に懇願することは当然のことと思うし、無理を強いる気持ちも理解できる。私個人の経験したことだが、私がまだ学生であった時、父が急病のために臨終に陥った。主治医がその後の対処について私達家族に意思決定を求めた時、私は徹底的な蘇生術や延命処置を希望した。家族なら「辛くても私達のために生きてほしい」と一方的に願うのであり、これは子供の親に対する正直な気持ちだと思う。
しかし、これは父が生前に希望していたLWとは全く反対の希望であった。この体験から私は、家族が本人の意思の代弁者どころか、本人が希望する処置の対極を望むことがあることを知った。家族・介護者は共同体の一員として、確かに何らかの励ましや助言を本人に語る権利を持つに違いないが、本人の意思とまったく相容れない対応を家族が希望することもあることを認めなければならない。本人・家族という複雑で巨大な共同体において、何が優先され、何が意思決定の手順になるのだろうか。
私はここで敢えてALSの厳しい状態について説明したい。ALSは運動系の障害をおこし、四肢・躯幹の動きがほとんど消失した時期になると、患者は辛うじて動く口の動きや目の動きでコミュニケーションをとることになる。ほんのわずかな四肢の位置が適当でないことを必死になって伝えようとしてくれるが、それが家族や介護者に理解されないことが増えてくる。その後、2~3ヶ月もすると、さらに本人の訴える量が減少し介護者はその分、本人の症状が楽になったと思うことがある。これは見かけ上のことであって、訴えが減ることは苦痛が軽減していることを意味してはいない。ALSの特徴として感覚障害がないとされているが、同一姿勢を保つためによって起こる四肢・躯幹の血行障害が生じ、血行障害により30~40%の頻度で二次的に生じる21)。その結果、耐えがたい痛みやしびれがあると想像されるが、本人はそのことを正確に伝えることが難しくなっている。終日臥床のまま、しびれや痛みを伝えられない、わずかに動く眼によって必至に訴えるが理解されず、また誤解される。周囲の人々の会話を聞きとることができ、判断できるが、全くそれに対して自らの考えを表明できない。そのことの苦痛がいかほどであるのか、推測ではあるが、あまりにも過酷であると言わざるを得ない。
こう考えてみると、たとえば「生命尊重が最優先」とか「まず生存が支持されるべきだという基本的な価値」22)という表現には、私は正論にある一種の冷たさのようなものを感じる。それは患者のもつ辛い痛みや心理的・社会的・スピリチュアルな痛みをまず何よりも配慮しようとする姿勢を認めることができないからだ。どんな厳しい状況であろうと、それに耐えて生きるのは本人であること、そしていかなる決断を下そうが本人が責任をとれるからこそ決められるのではないだろうか。
私が経験した患者であるが、80歳代のその男性は、癌の末期にあった。「最期は自宅で過ごしたいので、その時はよろしく」と私に言われた。病気の進行とともに、呼吸困難や痛みが増大した。しかし、彼はそれでも「自分の存在や痛みがわからなくなるような薬はいらない」と言って、安定剤やモルヒネ等の薬を拒んだ。亡くなる1週間前、いよいよ苦悶表情が強くなり、私は薬剤による緩和を勧めた。家族とともに「あなたが嫌でも、投与します」と半ば強行しようとした時、彼は思いもよらぬことを打ち明けてくれた。「私の戦友達は、断末魔で死んでいった。私だけが楽には死ねない」。私はこの時はじめて、緩和ケアの中で、取り去ることのできない痛みがあることを知った。
この患者の場合、私が教えられたのは、彼が終末期の激痛にあるのを私が見かねて医療処置をしようとした時、家族にも打ち明けていなかったことを話されたことだ。つまり彼のこの告白によって、私も家族も彼の意図を理解し受け入れることができたが、彼があそこに至るまで口にしなかったことを考えると、彼にとってはできることなら、誰にも伝えることなく自らの胸の内に置いたまま逝きたかったのではなかったのかということだった。白鳥春彦が「人間の中には計り知れない複雑さがある」と語ったように、人には誰にも伝えたくないものがあるだろう。終末期に皆が必ずしもそのような理由を持つわけではないだろうが、人の意思というのはそれほど他者が入りにくいほど固く閉ざされていることがある。明確な意思をもってそれを開けたくないと個人が言われるなら、家族でも受け入れなければならないのであり、これが本人の意志を「最上位の価値」であると言える理由と私は考える。

(7) 我々の死生観を本人に伝えない重要性

ひとりの患者には多くのサービス担当者が関わっているが、このことは本人の意思決定にさまざまな死生観をもつ介護者が関わっているとも言える。そして、ヘルパーやリハビリテーションの担当者は多くの時間を患者とともに時間を過ごすことによって、特に弱者である患者さんを包み込む母性的な思いに支配されることがある。家族でもない介護者が、ALS患者と長い関わりをもつと、ともに影響しあい生きていく関係が成立する。そのため積極的に患者本人の心の中に踏み込み、時に意思決定に影響を与える。かつて私は、リハビリテーションの担当者が個人的意思で家族の了解も得ずに本人の意思決定をリードし、現場に混乱を招いた事例を経験した。その後、サービス担当者すべての方々の間で、本人の意思決定にいかに関わるべきか、意思統一をはかっておく必要性を痛感した。
医師の場合も同様で、初診の時から長期間にわたって、本人や家族と関わりを深めてくるため、個人的な思い入れを強くしたり、本人や家族の意志決定に無意識のうちに介入してしまうことがある。現状では、特にこれに関する規約があるわけではなく、また各々の死生観はあまりに多彩で重いテーマなので、お互いが暗黙のうちに避けているようにも思える。そのためか、このことをはじめから問題としてとりあげない場合があり、また逆に一部の医師が特定の信念のもとに会議をリードしてしまう場合もある。
本人が自ら正しく決断できるために、医師はサービス担当者会議や呼吸器装着に関するインフォームドコンセントに際し、LWや事前指定書の作成、人工呼吸器装着をする・しないの決断について、偏りなく情報を提供しなければならない。
インフォームドコンセントは、現在、各担当医にまかされているが、今後は、医師が特定の死生観を本人に与えないように、そして本人が公正に与えられた選択肢の中から自らの責任のもとに意思決定できるように、次のように現場環境を整えていく必要があると思われる。(ⅰ)サービス担当者会議に先立って、介護・看護・医療関係者のみで説明すべき内容を検討し、病期ごとに確認すべき事柄を全員で了解する。(ⅱ)本人・家族の情報提供において、サービス担当者の全員が理解し、必要があれば修正できる関係を構築する。(ⅲ)次項(3)で説明する公正さや厳格さがなされている。(ⅳ)現在のような各医師の自己流に任されることのないようにし、病期に応じた内容が伝えられるようなマニュアルと、それらのチェック項目がある。(ⅴ)本人・家族の意思決定の際、彼らの理解度、病状、・・等などを把握し、サポートする公的な支援員がいる。

(8) 医療現場で求められる倫理・公正

2010年に開催された第51回日本神経学会総会のシンポジウム「神経内科領域における終末期の倫理的問題について」において、人工呼吸器取り外しに関して清水哲郎特任教授は次のように述べた。「呼吸器取り外しの選択は、呼吸器装着の選択と連関して考えなければならない」とし、「家族の介護負担を軽減できるような社会的体制を整えたうえで、呼吸器を装着する選択を標準に据えることが取り外し容認の条件になる。」
ここに私は二つの問題が含まれていると考える。ひとつは、「社会的体制を整えたうえで」の個所であるが、社会福祉の充実は無論のこと誰もが願うことながら、その実現を待つことは我が国では非現実的である。財源の問題は言うに及ばず、この問題の解決は、社会福祉などの外部要因によるのではなく、あくまでも個人の決断であり、個人の責任に帰するべきだからだ。
二つ目は、「呼吸器を装着する選択を標準に据える」という考えの危うさである。もし医療現場に標準的な選択を据えると、現時点で法制化反対派が「法制化されたら呼吸器取り外しが暗黙の圧力になる」と危惧しているのと同様に、「標準」という認識がこれを選択しなければならないという暗黙の圧力になりかねない。
2010年現在の日本神経学会のALS治療ガイドラインに、次のような解説がある。「呼吸障害への対応は,世界的に必ずしも統一されているわけではなく,むしろ欧米と日本には大きな差があるともいえる分野である」と認めつつ、次のような強い主張をしている。「呼吸補助導入を希望し,気管切開,人工呼吸器での療養の選択,気管切開や人工呼吸器装着をしない選択,マスクによる補助呼吸のみを選択することもある.これらどの選択であっても患者・家族,そしてその治療・療養に携わる方々に対し,現在可能である全てのサポートをしていくことが神経学に携わる者の使命である言える.」
ここで述べられる「全てのサポートをしていく程の使命感」を認識する前に、我々があらためて確認しなければならないことがある。それは、医師が医療提供するのは、患者本人や家族からの診療依頼などの意思表明が前提にあるということだ。医療側が「全てのサポートを」の意味を積極的に解釈しすぎて、患者や家族の意思決定に際しても、医療者側が主導することがあってはならない。
それは医療機関に所属する職員が倫理・公正を旨とするなら、否応にも次のような現実があることを忘れてはならないからだ。もし本人・家族が人工呼吸器装着に同意して装着されたなら、これは経営面から見て数年間、場合によっては10年間以上の医療・看護の提供が保障されたことになる。在宅医療の場合、医療機関が2週間毎の往診とすると、毎月、在宅患者訪問診療料が2回、在宅人工呼吸指導管理料、人工呼吸加算、在宅時医療総合管理料、神経内科専門医の場合はさらに神経学的検査、神経・筋検査判断料が保険請求できる。訪問看護・ヘルパー等の介護事業を手がけていれば、さらに増収になる。
このように人工呼吸器装着により、医療機関に多大な安定的報酬を与える保険医療体制になっている限り、医師に営業活動の意図がある・なしに関わらず、インフォームドコンセントにおいて医療機関の利益誘導にならないように監視されなければならない。そうすることで本人・家族の意思決定においては、あくまでもサポートの立場にあることを明確にすることができる。
市や県に所属する難病専門員のような公正な立場の人が、その場に同席し本人の意思の有無、本人・家族の理解程度や意思決定能力などを確認することも望まれる。また本人・家族と医師間の調整役の機能も有することだろう。そのような機能を有する担当者により、インフォームドコンセントは全国的に標準化したものになるのだろう。

(9) 法務当局の沈黙、医師の違法性阻却の問題

2004年3月の日本医師会医事法関係検討委員会は、終末期医療において本人の自己決定権を最上位の価値であると主張した。そして「広義の終末期医療、延命医療の差し控え・中止などを裁判所が審理するために法的整備が可及的すみやかに行われるべきである」と提言した。にもかかわらず法務当局者が返答しなかった理由は、おそらく尊厳死法制化反対派のさまざまな分野からの指摘・批判・警告があまりにも重く深いものであるがために、その各々に的確な返答ができなかったからだろう。
また終末期医療の現場にはそれぞれの事情がある。キェルケゴールが言うように、真理は人間の数ほど存在する14)のであって、この意味において、普遍的真理を一事例に適用できるかの議論は意味をもたない。こう考えると、法務当局から返答がないのは当然なことかもしれない。
医師の違法性阻却が法制化問題については、関正勝はこれを法制化問題の核心ではないかと主張している。そして、次のように問うている。尊厳死が法制化された場合、人間に『死ぬ権利』を保証することは、ぎりぎりの命を生きている者の生命を奪い、『殺す権利と義務』を社会にそして医師に与えることになりはしないか23)。この問いかけに我々のうちの少なからぬ人達は同意し、法制化に不安な気持ちをいだくだろう。
しかし一方で、現場にいてぎりぎりの命を生きている者の現実を知る者にとっては、そのぎりぎりがどのような状況なのか、本人が生きる上で最も大切だと考えているものは何か等への配慮を、この問いかけの中に認めることができない。
ここで我々が再度思い起こしたいのは、LWとは終末期における個人の願いを文書に書き記したものであるということだ。我が国では、LW運動をおこした協会会員が自らの願を実現させるために、主治医に配慮して「違法性あるなら免責させたい」と主張しているのであって、その結果として二次的に生じた医師の違法性阻却は、法制化問題の核心にはなりえないと私は考える。

(10) 現代日本人の死生観

現代の日本では、憲法で思想及び良心、信教の自由が保障されており、従来の日本古来の死生観の上にきわめて多彩な文化や思想が構成されている。今の日本人の死生観を一言で表現するなら、多様性であり、ポストモダニズムにある世界の中でも際立った存在だと思われる。
一般的な日本人の死生観の変遷について振り返ってみる。本居宣長は『玉くしげ』の中で「世の人は、貴きも賤きも善も悪も、みな悉く、死すれば、必かの予美国にゆかざることを得ず。死すれば・・・馴たる此世を永く別れ去て・・・これぞ神代のまことの伝説にして、神代のまことの伝説、すなわち、『古事記』・『日本書紀』の伝えるところ」とある24)。つまり、日本古来の死は「別れ」であり、戦前までの日本人の多くは自宅で死を迎え、家族などの看取る人々とともに死を受け止める文化があった。
しかし、戦後の日本人の死生観は変貌した。中井哲郎は次のように述べている。第二次大戦後、日本には狩猟民族であるアメリカに代表される物質文明が怒濤のように入ってきて、長い歴史をもち、和を重んずる農耕民族としての日本の精神文明は、価値のないものとして捨て去られてしまった25) 。
キリスト教では、死はきわめて日常的に語られるテーマになっているが、我が国でのキリスト教の影響について中井哲郎は、さらに次のように解説している。近代思想はキリスト教文明の中から生まれたが、キリスト教自身が天国と地獄の思想をもっているため、これをつきつめてゆくと近代人の世界観はキリスト教の教理と矛盾するために、近代人はなるべく死後の世界を語ろうとはしない。そして、このような風潮が近世になって日本の仏教の中にも入ってきており、この世のみを信じ、この世以外にあの世があるということは信じないという考え方を生んでいる。死んで何処に行くのかというような質問はなるべく考えないようにして、問題をこの世だけに限定しているのである。
また相良亨は『日本人の死生観』の中で「死ねばすべてが無くなると考える者にとって、死は絶対に回避すべきものとなり、一方、死は別れであるとみる者にとっては、死は単なる通過点に過ぎない。」26)と記している。
日本古来の死生観を持つ者にとって、死は「別れ」であり、いずれ「あの世」もしくは「天国」で再会できることを期待する。一方、死はすべてが無くなると考える人にとっては、あらゆる手を尽くしてこの世に生きることが最優先になるのだろう。当然、両者が尊厳死について議論する時、そこに不協和音が生じることになる。
死生学の展開と組織化を研究する島園進は、「医療臨床と医学研究の現場では、日常的に死生観に基づく倫理的判断が問われるようになっている」と述べている27)。したがって、もし本人が意思決定に際し、次のように公言したら、論争の方向性はもっと明らかになるのではないか。「私はこの世に生きる上で、~を最も重要なものと考え、死を~のように受け止めている。このもとに尊厳死を~と考え、したがってその法制化に~対処する。」

今後を展望する

(11) 何が尊厳死法制化を国民的議論に導くのか

尊厳死法制化の是非が国民的議論になっていないことが、制度改革の障害になっているとの指摘にしばしば出会う。では何がどのようになれば国民的議論になるのだろうか。私には残念ながら今までの経過を考えて、法制化賛成派・反対派間の議論によるアウフヘーベンや、「LWの正しい知識の普及」活動が国民意識を主導するとは予想できない。次の①~⑤に列挙するような社会的環境の変化のために、多くの国民が否応にも関心を持たざるを得なくなり、国民的議論が湧き起こされると予想する。
①  財源の問題
日本の高齢化社会がさらに進み、団塊の世代の多くが介護・医療を受けるようになる頃には、介護保険や医療保険の財源確保がきわめて厳しくなり、個人負担は増え続けると予想される。患者の『生きたくない』発言には、確かに『家族に迷惑をかけたくない』という遠慮が言わせている側面もあるだろう。「議論の中核にあるべきは、制度的な支えがない中での患者や弱者の自己決定の信憑性なのだ」28)という反対派の危惧は、今後の5~10年、さらに重々しく現実のものとなって、国民すべてに突きつけられるだろう。
②  後見人制度
独居老人が増えている。本人の判断力が保たれているうちに、任意後見人から財産管理について自らの意思を明確にすることが求められる。さらに成年後見人による医療代諾も不可欠になり、彼らから本人にLWや事前指定指示等の作成も勧められるであろう。この時、認知症の早期診断を依頼される神経内科医はその診断を高めることと、ALSの場合よりさらに問題の拡大する認知症患者のLWに直面する。「必ずしも死期が迫っているとはいえないが、回復の見込みがまったくない患者というグレーゾーンが大きく残されている」29)という指摘がある。「命ある限り精一杯生きぬくことが人間の本質である」ことに同意しつつ、「自らの存在や家族を認識できなくなって、それでもなおどのように生きる」のか。これへの返答に本人・家族・我々は、待ったなしの状況に立たされている。
③  中高年に増えるピンピンコロリ願望
2010年7月19日付の朝日新聞に、中高年に広がるピンピンコロリ願望の記事が掲載されていた。厳しい介護の体験を通して、「子供や家族に迷惑をかけたくない」と願う中高年が増えているという。2003年11月、厚生労働省の「終末期医療に関する調査」において、「リビングウイル」の考え方に賛成する国民が過去最高の約六割に達していた。医療や福祉の充実を願いながら、一方で抗しきれない現実と個人的思いをもとに、我々は現実的な判断をしていくのではないだろうか。
④  社会が求める厳格さ
医師が本人・家族に対して行うインフォームドコンセントには、現在、その説明事項に何の制約もなく、各医師の判断に委ねられている。これからは公正・公平性が保たれ、情報格差が生じない形態が求められる30)。サービス担当者会議においても、特定の発言力の強いメンバーが会議を進行させるのでなく、また自らが所属する事業体の利益誘導にならないように、様々な役割を担う方が多様な角度から、患者本人の利益を模索するようになるだろう。
⑤  患者の権利法をつくる会31)の運動
患者の権利宣言全国起草委員会が1984年に「患者の権利宣言案」を、九州・山口医療問題研究会が1987年に「患者の権利宣言」を、患者の権利法をつくる会が1991年に「患者の諸権利を定める法律要綱案」を発表した。 また、日本弁護士連合会は1992年に「患者の権利の確立に関する宣言」を発表した。
これらは患者の権利に対する認識が高まっている証拠と言えよう。尊厳死法制化を希望している者は、不治且つ末期での延命処置を拒んでいるが、中にはあらゆる延命処置を希望する患者もいる。「本人の意思で延命措置を希望する場合にはこれを尊重し、全面的に支援するのは当然である」と日本尊厳死協会井形理事長は語っているように、「患者の権利法」制定を求める活動は、尊厳死法制化の運動とも連動して、今後、より活発になることだろう。

①~⑤の社会現象を反芻するに、大多数の国民が尊厳死を自分自身の問題として受けとめざるを得なくなっている。事実、厚生労働省による国民意識調査をふまえての第1回終末期懇談会(平成20年10月)で、「リビングウイルに賛成する人が、初めて一般国民の過半数を占めた」と報告された。我々国民が終末期をどのように過すべきか、我々が社会に問いかけるのではなく、我々一人一人が社会から次のように問われている。「今、あなたはあなたらしく共同体の中で無数の選択肢から何を選び取りますか」。これに答えることが、ポストモダンにおける我々一人一人の主体性だと考える。

(12) 介護・看護・医療技術の進歩

ALS患者の終末期、完全な閉じ込め状態(TLS)においても、脳波コミュニケーションにより、意思疎通が可能であると期待されている。介護の質や緩和ケアの質の向上に役立ち、また人工呼吸器をつける生き方の決断に影響を与えるだろう。脳波コミュニケーションは、もし患者本人がSEIQoL32)で、自らの生きる価値の筆頭に「家族とのコミュニケーション」をあげたとしたら、その方のQOLを高めることに役立ち、生きる意欲にも影響を与えるに違いない。そのため、尊厳死法制化後、ALSの患者で人工呼吸器をいったんつける選択をする方は増えるのではないかと予想される。しかし、呼吸器を装着せずに亡くなる方々と同程度に、もしくはそれ以上に深刻な問いを先送りにする事例もあることを、我々は留意しておかねばならない。
人工呼吸器装着後でも、豊かなコミュニケーションを保てるなら、おのずとそこに生と死に関する赤裸々な意見交換がなされるだろう。そこで私が危惧することは、呼吸器装着の増えた分、装着後にやはり止めたいと希望する患者も増えることだ。本人が人工呼吸器の停止を懇願し、家族が引き止めようとするといった深刻な場面や、家族に囲まれて呼吸器を止めて患者が亡くなるシーンを想像してみると、呼吸器をつけずに呼吸不全で亡くなることの方が、私にはより自然であると思える。インフォームドコンセントにおいて医師が患者・家族に対して、「これらの医療技術の進歩により、TLSになっても豊かなコミュニケーションは可能だ」と言及したのなら、将来において生じるであろうこれらの問題を、同程度の深刻さにおいて説明する責任が生じることを忘れてはならない。
いずれにしろ呼吸器をつけて亡くなる、呼吸器を止めて亡くなる・・・このいずれかを選ぶことは、あくまでも本人の責任において決定されるべきであり、このような厳しい現実についてありのままに本人・家族に情報提供されなければならない。

(13) 法制化されたなら

平成21年12月厚生労働省による「第5回終末期医療のあり方に関する懇談会」報告書33)に「緩和ケアに関するものの見方・考え方を関係者すべてが共通に持つ必要がある」と、明記されている。わが国でもし尊厳死法制化が実現したら、LWにおいても同様に記載する必要がある。たとえば、患者自身がLWを作成したその時の自分が将来を決定する自分であること、そして判断力の低下が認められた際は、どこまでが自己決定可能な境界なのかを、本人・家族・介護者・医師が共通の認識として持たねばならない。もしこの共通認識を医療現場で共同体のメンバー全員が構築できなければ、混乱は必至である。
実際にLWや事前指定書を作成しても、将来、自らに不利になるように働く場合が起こりえる。このリスクについてオランダ死の権利協会は、協会が推奨する事前指定の書類において、次のように説明している。「この指示書は、署名後の経過期間とは無関係に有効であるものとします。したがって、たとえ後になってこの指示書を修正あるいは撤回したいと願っても、その時にはそれができなくなっているというリスクも考えられますが、私はその点を認識したうえでリスクを受け入れます。つまり、私は容認できないような状況下で生き続けなければならなくなるリスクの方が重大であり、私はそれを回避するためにそうするのです。17)」
私はここに3つのものを感じる。指示書を作成した時点での自分が将来を決定するのだという強い意思、「私とはそのように考える人間だ」という説得の働きかけ、そしてリスクを受け入れて責任は自らにあるという他者への配慮である。
また尊厳死法制化が実現すると、LW作成に強すぎる意思を感じる者や、障害をもって必死に生きている患者にとって、尊厳死が無言の圧力になり、生きる権利を脅かすことがあり得る。
憲法13条とは、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」これは国民一人一人の幸福権であり、現在、尊厳死法制化を支持する者たちの法的な根拠の一つになっている。
尊厳死協会会長が「本人意思の尊重」を説いたように、尊厳死協会が人権の立場からきっと擁護するに違いない。また私はきっとその時にはこの憲法13条が逆に、障害をもって必死に生きている方々を守る根拠になってくれるものと信じている。
現在は数の原理から、法制化反対派の希望通りに法制化はされていない。しかし、将来において立場が逆転することがあっても、共通して浮かびあがってくる問は少数派の人権である。立場の弱い方々の人権が保護されているか否か、我々は警戒し注意を喚起していかねばならない。

おわりに

尊厳死法制化をめぐる論争で明らかになった問題を、本人・家族・介護者・・・の視点から検討し、私なりにすべての問いに答えられたと思っている。そして強く思わされたことは、尊厳死に関する論争は、「個人の権利」対「社会の了解」の分裂・対立であることだった。つまり「個別的・偶然的な現実的存在」と「普遍的・必然的な本質的存在」の対立である。個別的権利をふりかざせば、身勝手な個人が増えてしまう。一方、「社会の了解」や普遍的真理を追及し過ぎると、個人の小さな存在が無視される。両者の論争はきっと絶えることはないだろう。さらにポストモダンという多様性の中でこのような論争の意味が希薄になりつつある。
我々はそれでもこの論争を尊重しつつ、次のことに留意して医療現場に立ちたい。個別的で偶然的な現実的存在が優位であり、自己決定権が「最高位の価値」であることを再認識すること。法制化の如何にかかわらず、キェルケゴールの言うように患者一人一人の中に真理を見出す者であることを。

文献
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