介護・医療現場で意思決定に影響を与えている日本人の死生観・・・終末期ケア環境世界ランキング報告書. The Economist Newspaper Limited. The Economist 2010;7

論文

・・・要約・・・
《起》
かつて30年間、筆者は内科医として終末期・臨死期にある患者逹を診てきた。そして終末期医療の最終的な方針の決定にあたって、患者がまだ意思決定能力が保たれていながら、自らの意思を曖昧にして、家族に決定を委ねるような姿勢をとる姿をしばしば目撃してきた。それを当初は日本人に特有な死生観・「個よりも家族としての決定を尊重」する風習のようなものと漠然と考えてきた。このグローバル化して世界の一体化が進む現代、「日本人に特有な」などという形容詞が果たして存在できるのかと思いつつ、医療現場にいて、次の①~③の現実から、この「日本人に特有」な現実があることを認めざるを得なかった。
① 平成19年5月、厚生省は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を発表した。その中で、「終末期医療及びケアの方針決定は、患者の意思の確認ができる場合、専門的な医学的検討を踏まえたうえでインフォームド・コンセントに基づく患者の意思決定を基本とし・・・」と明記した。このガイドラインの発表後、救急医療学会・脳神経外科学会もつづけて同様なガイドラインを作成した。筆者はこれを契機に、患者本人の意思が尊重され、患者本人が自らの意思を明確に主張する風潮・習慣が養われると予想した。しかし、医療の現場では、主治医の説明に多少の変化はある認められるが、患者本人には、明かな意識改革は認められなかった。
② 我が国の尊厳死法制化。尊厳死法は、1976年米国カリフォルニア州において自然死法(Natural Death Act)という名称で初めて成立し、その後、欧米では次々に法制化された。我が国は明治時代、近代国家をめざしてほとんどすべての分野で欧米の文化・文明と取り入れてきたが、こと尊厳死法制化という「死」に関わる領域においては、現代に至るまで、日本的な何かがその積極的な成立を止めている。尊厳死協会が議員立法によって近々の法制化を目指しているが、法制化賛成派と反対派間の論争は続いており、終息する兆しがない。私は欧米に追従すべきだと主張しているのではなく、我が国に特殊事情があるに違いないと思っている。
③ WHO憲章では、前文に有名は「健康」についての定義がある。1998年、WHO執行理事会は新しい提案をした。「Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 」つまり健康にはspiritualという観点があり、人間の尊厳や生活の質を考えるために本質的なものだという理由から提案された。これを総会提案とすることが、執行理事会で賛成22反対0棄権8という圧倒的多数で採択され、大きく報道された。しかし、その後、我が国ではspiritualという概念が看護・医学教育にまったく見られない。医療の技術水準は世界の最高レベルにありながら、患者の満足度は低い。英誌Economistの調査部門「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット」は2010年、日本のQuality of Deathは世界で23位だと発表。先進国で最下位だった。看護・医療でmental qualityに触れない、否、触れさせないというこれも本邦の特殊事情があるに違いない。

現場における患者の意思決定とその背後にあるものを検討することが目的だが、一言、介護・医療現場と言っても、千差万別である。ある個人は、「個人の権利」を最優先にする視点、個別的・偶然的な現実的存在で考える。一方ある個人は、家族や介護・医療者が構成する「集合体としての了解」を求めて、普遍的・必然的な本質的意味まで検討する場合もある。いずれが妥当かなどという問いは、医療現場ではあまり意味をもたない。患者たち自身は決断できずに立ちつくしても病気は進行していく、つまり時間的存在である現実が突きつけられる。たとえば尊厳死の法制化などの問題で法律・倫理・医学などの専門家の論争が続いているが、現場からは患者・家族の実情をそのままにして、なおも議論を続ける意味がどこにあるのかと問いかけたくなる。
今回、筆者は患者・家族・介護と医療関係者が下す終末期医療の決定プロセスが、妥当とか不適切であるなどとは関係なく、現実的な決断をしている実際の姿を知ることに努める。個人がいかなる意思決定に至ったかそのプロセス(個人の信念、こだわり、家族・介護・医療者からの働きかけへの本人の対応、・・・)を記録し、それらより、決断の背後や根底に見え隠れする日本人の死生観、日本人ならではの思考・・等を明らかしたいと願った。
《承》
対象  介護・医療現場の最前線で従事した経験のある主に訪問看護師・往診
の医師・ケアマネージャー(合計50名)を対象にして、面談での聞き取りをした。
ヒアリング経過  5月~9月

ヒアリング時留意点・確認したこと
筆者は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を契機に、医師や看護師・社会の風潮やマスコミ等からの啓蒙等の働きかけを受けて、患者本人の意思が尊重され、患者本人が自らの意思を明確に主張する風潮・習慣が養われると予想した。しかし、医療の現場では、主治医の説明に多少の変化はある程度認められるものの、患者本人には明かな意識改革は認められない。
ある患者が、またその家族が、患者の終末期にあって今後の医療・看護・介護の方針を決めようとするとき、(さまざまな状況が繰り広げられるが)、総じて何か確固とした(あるいは何らかの根拠)にもとづいての決定をしているであろう。それが何なのか、何が各人を最終的な決定に導くのか、この問いに、ほとんどの医療・介護現場の担当者は、包括的コメントをだすことができずにいる。個別性の中に、何か共通したものを抽出できないか、これが今回のtrialが追及する主要な課題である。これを追求すべく以下の研究方法をとる。
はじめに筆者の診療所に関係する終末期にある患者達の中から、患者本人・家族・ケアマネージャーを対象にする。対面する人数は、現時点で不明だが、50名を目標にする。これら全員に面接調査する。問う事項を列挙する。
(1) (患者本人に対し)主治医からのインフォームドコンセントに際し、終末期にあるという説明を、どのように説明をうけたか。(充分な説明・納得できる説明であったか・延命続行や延命処置中止に関係する説明を、偏りなくうけたか・主治医の個人的な見解を、患者・家族は求めたか・求めずして、主治医は個人的見解を述べたか)現状にあって、患者自らの意思を決定する際、何を最も重要なよりどころとなったか(宗教か、生きがいか、価値基準になるものがあるか・・・等)。
(2) (患者家族に対し)患者自身の意思が不明である場合、家族が代理をするが、この際、患者自身の希望が何であるかを尊重する考えに立ったか。立つことができなかったなら、その原因は何か。患者の立場を尊重するように主治医はすすめたか・・・等。
(3) (本人・家族に対し)意思決定するように求められた時、家族の意思、介護者からの助言、主治医からの助言・・・等の中で最も尊重するのは誰からのものか。尊重するとしたその理由は何か。
(4) (全員に対し)意思決定を求められた時、決定を遅らせたい、決定したくない・・・等、そのような場面にいたくないと思ったこと・そのような様子が観察されたことはあるか。もしあるなら、その主たる原因はなにか。「難しいことは考えたくない」、「わからない」という返答を本人・家族がした際、担当医はどのような返答であったか(つまり、決定を出さない本人・家族にどのように寄り添うか。決定しない、またはできない状況をいかに斟酌し、待つか・決定を促すか、指導するか・・・)。
(5) (全員に対し)意思決定を妨げるものがあるなら、それは何か。身体的ケアがすべてに優先するためか、終末期に至る原因疾患以外に他の心理的影響を与える何らかの原因があるか、経済的原因か・・・等。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・etc
現場に見られる多様な価値観が由来するもの。それらを各論のなかから抽出し、何らかの共通項を見出したい。そして次に、これらを次に列挙する倫理学・社会学的観点から考察する。
WHOが1998年、健康の定義の変更を提起したが、そこにある「spiritualにおいてもwell beingである」ことの解釈をなぜか厚生省をはじめ内科学会や看護学会は明確にしてこなかった。これと日本人の死生観とに関連はあるか。
尊厳死法制化が欧米ではなされているが、我が国においてはされていない。この是非は別にして、法制化されていないために医療現場では、多くの混乱・誤解が生じている。それら現場の問題を棚上げにして法制化論議を続ける根拠は何か。自己決定を確固たる個人の権利として認識する欧米と異なるのは、日本人の共通する死生観・宗教的背景などがいかに関与しているか。
エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(2010年)で日本のQuality of Deathが先進国で最下位だと発表した。しかし、これへの我が国・各医学学会からコメントは発表されていない。医学・医療の技術面では、我が国は世界の最先端にありながら、mentalおよびspiritual careが軽視されてきた現実を医学現場の医師・看護に従事するものはどのように受け止め、今後、いかに対応しようとしているのか。

終末期医療の決定プロセスにおいて、何が患者本人の最終的な決定に導くのか?と考えたとき、筆者はこの「最終的な決定」にとても重要 この問いに、ほとんどの医療・介護現場の担当者は、総論的なコメントはだすことができず、A患者は~であった、B患者は~であった・・・と語るだけで、多くは黙りこみ、立ちつくしてしまうだろう。
個別性の中に、何か共通したものを抽出できないか?これが今回のtrialの目的である。
照会

日本人が人生の重大な決定をする際、その決定のプロセスに日本人特有な何かがあるのだろうか、調査する。(無論、日本人とて決して均一ではない。ここで言う日本人とは、死生観について多数決をとった際に形成される圧倒的多数派という意味である。)
【研究の計画・方法】
はじめに筆者の診療所に通院中の終末期にある患者達の中から、本人・家族・ケアマネージャーに対面調査できるcaseをすべて収集する。20名程度だと推測するが、これら全員に面接調査する。問う事項の中から重要項目を列挙する。
現状にあって、自らの意思を決定する際、何を最も重要なよりどころとなっているか。またそれは何か。
意思決定するように求められた時、家族の意思、介護者からの助言、主治医からの助言・・・等の中で最も尊重するのは誰からのものか。
尊重するとしたその理由は何か。
意思決定を求められた時、決定を遅らせたい、決定したくない・・・等、そのような場面にいたくないと思ったことはあるか。
もしあるなら、その主たる原因はなにか。多く場合が、単に「難しいことは考えたくない」とう理由だ。ここに日本人の多く
病院に入院した際、もしくは外来受診した際、検査結果や身体的な事項のみを語る医師に違和感を覚えることはあったか。

研究を続けていくうちに気付いたことであるが、「人間が意思を決定する」行為のメカニズムは、きわめて哲学的であり、「意思とはなにか」とか「自己の存在とは何か」にたどり着く。今回、筆者はそのような総論的観点でなく、現場から情報を収集して、その中から共通した日本人の死生観なるものに近づけたらいいと期待している。

意思決定したその時が、その方にとって人生の総括のような意味があると我々は受け止めやすい。しかし、誰もほとんどの方々が、一時的なもの、少なくとも将来、変更の必要があれば変更しようと考える。・・・つまり、最期の意思決定とは必ずしも最期ではない!

★ サービス担当者会議などで、自分のコメントをする際、否、皆のコメントを聞いていると、主語があいまいなまま、話す事が少なくない。主語を明確にしないで話す際、「これは一般常識の範囲内ですよ」という意味が込められる。または、「ここに集まるみんなの総意に違いない」という了解があって話していると気付く。
★ なぜ、主語があいまいか?の問いに、「日本語には日本語の論理がある」(日本語はあいまいか)秋山洋子著・・・たしかに、「欧米系の言語は、論理的な文章を書くのに日本語より適しているように見える。日本語そのものが非合理なのではなく、無効の土俵でむこうの土俵で、むこうのルールで勝負しなければならないため、ハンヂィキャップを負っている。」
★ 日本の臨終の席では、家族が死に目に会うことがとても重要視される。親の死に目に立ち会えなかった者は負い目を感じる。私も担当する患者が亡くなる際には、患者の家族が病院に着くまで必死で延命を続けたものだ。

筆者は、今回の医療現場の調査により、明確な日本人の死生観に出会えるのではないかと期待した。当初の予想どおり、かぎりなく個々の状況の世界であり、明確な「日本人の精神」とか、死生観を指し示すような事例にであうことはなかった。しかし、患者達と接する専門職の方々との面談をとおして、彼らの考える「日本人を日本人足らしめる何か」について、大いに情報を得ることができた。
日本人的なるもの:
① 東日本大震災の際、被災地に暴動がなかった。これは、世界的にきわめて特殊なこと。
② 個人の意思より、家族やお世話になった医師や医療関係者など、集合体としての意思を尊重する。
③ リビングウイルの法制化といった絶対的・強力な拘束を嫌う傾向がある。
④ 一神教のような、絶大な存在を信じるというより、多様な価値観のなかでの安定を求めている。
⑤ モンスーン気候による影響。一夜にして田畑を失う。収穫直前の稲が台風により失う、そのことの喪失感。そして、その翌朝の晴れ渡った秋晴れ。このコントラストが日本人の精神に与えた影響は大きい。

《転》

★介護保険制度でいうサービス担当者会議(居宅サービスプランに関わる居宅介護支援事業所の担当介護支援専門員が主催する会議。単一の事業所だけでなく、同一利用者にかかわる多機関に所属する異なる多職協働で実施する。基本的に利用者やその家族も出席する。)に参加していて感じることだが、これが文化の異なる国の場合、話し合いの雰囲気が全くことなるのではないかと思われた。多民族国家とことなり、単一民族・同一言語・同一習慣・・等などの我が国では、「言わなくてもわかってくれている」、「私のために皆は私以上に心配して考えてくれている」・・・などと受け止めている、そのように思わざるを得ない、日本語自体の特製のためにそのような精神構造にかえられてきたのか?

★2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方 太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波により、大勢の犠牲者がうまれた。この災害をじっと耐える日本人の姿を外国メディアは報道した。「暴動がない」と。
我々日本人からみれば当たり前のことながら、諸外国からは奇異にみえるらしい。思えば、駅のプラットホームや改札口にしても、並ぶ列に強引に入ろうとする日本人はほとんどいない。
この集団の中の統率ともいえる現象は、日本人特有の「何か」に違いない。

★我が国は国土は狭い、地下資源が乏しい・・・とは言われるが、この小さな国土は、豊な漁場に囲まれている。また、国土の7割は森林であり、山の幸、豊富な水・・・。せまいながら、人の生活を維持させる環境はまことに豊。したがって、狭い平地に木造で家を建て、家家は肩を接して建てられる。狭い中で多少の小競り合いはありつつも、大昔から日本人はこうして生きてきた。
しかし、ここには、地震・台風・水害があった。一夜にして収穫前に田畑が消え、また一夜にして村が焼失することがあっただろう。
人々は、互いに助け合わねば生きていけなかったにちがいない。

一夜にして村が無くなる、収穫まえの米が台風で流される・・・・人々は、その次の晴れ渡った大空をどのようにみたのだろうか?
自然の驚異を・・・
収穫前、わずかな天候の変化を恐れ、おののきながら、ただただ祈るしかなかったにちがいない。この自然への畏敬、山岳信仰ともいえる「自然の前にひれ伏す」・・・そうしなければ生きてこれなかったのではないか。

したがって、このような人格は、DNAにくりこまれた・・くらいに表現できよう。

★生きてきたように死んでいくと言われる。そのように、日常の生き方そのものが、終末期にも反映される。とすると、家族が本人にかわって意思決定する・・といっても、かつての本人がまだ幼い息子・娘に接して生きた、示してきた生き方が本人の終末期に本人にかわって(息子や娘が独自で決めるようでいて、そうではない)決める・・・とも考えられる。
★全体で考えることに、自ら一人で考えるより、優れた見解に達する!その信念があるのかも。
★自分はひとりではない。家族・友人・・・そういう集合体の一部。だから、ひとりで結論はださない。貪欲に

★ 私がこだわっていたこと、私が何をこのテーマから見出そうとしたのか?
それは終末期になにか、とても大切な何かが提示されるに違いない!と信じていたから。
しかし、その根拠は何か?・・・・真に心もとない。
確かに死とは個人にとって重大なこと
しかし、死は世間ではありふれたこと。陳腐といってもいい。
なぜ、終末期にこだわるのか?
・・・・・・
つまり、何をもってその方の意思とするか?
終末期に何らかの意思を発してもそれは最終的な本人か?本当にそう言えるのか?
老いた最期の言葉が何の意味があるのか?
その方らしさは、若々しかったその時ではなかったのか?
たとえば女性なら、出産し子育てに忙しく、わが子にすべてを注ぎだしていた時では?
男なら、壮年期に悩みながら全力でこの世で歯車として働いていた時がその人らしかった時ではないか?
終末期の意思とは、どういう存在なのか?

今回、このテーマは問わない。いずれにしろ、私達は老いていく。その終末期、人生を去ろうとしているその時、(重要か否かは関係ない)、どのように意思表明したそのことの意味をしり、どのようにその意思表明の存在価値を知るか? 存在価値がないように見えてもどのようにそれに対処したらいいのか? どんなものか?
これを考える。
★日本人を日本人とさせているもの、それは「日本語」。主語を曖昧にしたまま、会話できるのは、それで連帯意識ができる。・・・・日本語は昔からそんなに、曖昧だったのか?
主語を曖昧にしないで明確な表現にしたら、美しい日本語を保てるだろうか?

★、「日本語は主語が曖昧になってしまう状況でも主語を省略でき、しかもその状態で完全な文として成り立つ。」 「主語を必ず必ず明示するというのはヨーロッパ語、特に英語やフランス語などの西ヨーロッパ語の一部への見方であって、それを世界標準と考えるのは考えが偏屈です。」「「思う」を使うと非論理的になるのではなく、根拠の信頼性が低くなるので説得力に欠けることが言いたいのだろうと思う」
★言語学の統計によると、語順に関しても日本語と同じSOVの語順を持つ言語の数が一番多いらしいです。ビルマ語とヒンドゥー語等がSOVの言語です。そもそも、「象は鼻が長い。」式の文に対してSOVという枠組みで当てはめてしか考えないというのは、ヨーロッパ中心主義的で偏っています。
世界の言語を全部知っている人などいませんし、私も文法構造をしっている言語はせいぜい15くらいなので「らしい」としか言えませんが。
この場合の数え方は話者数ではなく、言語の種類のことでしょう。話者が2人だとしても言語としては1票として数えるという方法です。僕が知る限り、世界の大言語(現代語)は英語と同じSVOが多いです。
★中国語などの他の言語でも主語の省略ができます。分からない時は「誰が?」と聞きます。また、一般に日本語で「主語がない」と言う時の「主語」は言語学上(統語論)の主語ではなく、「主題」のことを言っていることもあります。
★『日本語の「常識」を問う』のp27には
「必ず主語を表にだす言語の方が少ない」と言語学者はいう。
これの根拠が示されていないのでわかりませんが、聞いたことがある話です。
また、主語を省略する理由にも様々あると書かれています。しかし、紹介している例は実質ラテン語とイタリア語だけです。(中国語で省略する理由を述べると思いきや、話がそれて説明されていません。)
いずれにしても、主語の省略などを日本語だけの稀有な特徴だと結論づけるためには、統計学的に有意な数の言語データをとり、多くの日本語以外の言語が同じ特徴を持たないことを証明しない限り、断言できないでしょう。
(日本語の特殊性を証明するためだけに調査することは、他に実用性がないので調査コストに合わない。)
主語を必ず必ず明示するというのはヨーロッパ語、特に英語やフランス語などの西ヨーロッパ語の一部への見方であって、それを世界標準と考えるのは考えが偏屈です。
中国語などの他の言語でも主語の省略ができます。分からない時は「誰が?」と聞きます。また、一般に日本語で「主語がない」と言う時の「主語」は言語学上(統語論)の主語ではなく、「主題」のことを言っていることもあります。
それとSVOの方が論理的だとか言われますが、言語の形式なんて論理性とかの意味(シニフィエ)とは関係ない。
言語が論理的かどうかを決めるのではなくて、論理的思考を習慣的にしているか、民族が論理思考を重視しているか、に帰結すると思います。
★日本語は体系的
(0)はじめに
一般の日本人は日本語は話せるが、日本語文法の知識はない。学校で習った「学校文法」の知識は少しあるかもしれないが、ほとんど忘れてしまっている人が大部分だろう。
文法の知識などなくても、日本語が話せるから、ちっとも困らない。一般の人は日本語文法を知らなくてもいい。
一般の人は日本語文法の新しい知見を知らなくてもいい。それは、例えば、新しい原子物理学の知識を一般の人が知らなくてもかまわない、というのと同じことである。
自然科学が時代とともに進歩するように、文法の研究も進んでいる。しかし、これはなかなか一般の人に知れ渡らない。一般の人は「学校文法」が日本語文法のすべてだと思っている。
しかし、一般の人も日本語が話せるものだから、日本語についてひとこと言うことがある。日本語文法の新しい知見についてなにも知らないのに、知ったかぶって「日本語の文法は体系的ではない」など言う“評論家”たちがいる。
そういう“評論家”たちは「日本語は論理的ではない」「日本語はあいまいである」などとも言う。彼らが「日本語は~である」と言うときは、多くの場合、英語と比較してである。広く世界の言語と比較してではない。
「日本語は体系的でなはい、論理的ではない、あいまいである」というのはすべて間違いである。
(1)日本語は体系的である
この場合「体系的」ということをどのように解釈したらよいか。一般的には「矛盾なく文法が記述されている」ということであろうが、もっと具体的に分かりやすく言うとすれば「文法の規則の例外が少ない」となろう。
だとすれば、日本語は英語よりずっと体系的である。一例を挙げれば、日本語の不規則動詞は「来る」と「する」の2つしかないが、英語には200ぐらいある。
日本語教育のテキストには「テの形」(TE FORM)というのが必ず出て来る。「学校文法」にはこの用語はない。「学校文法」しか知らない人は「テの形なんて、なんとわけのわからないもの……」と批判する。
しかし、「テの形」という概念が持ち出されてから日本語はますます体系的に把握できるようになったのである。
日本語文法の新しい知見は日本語教育の要請から研究されたものが多い。例えば、
雨が降っている
月が出ている
の「ている」の意味の違いを説明するとき、あるいは
窓が開いている
窓が開けてある
の意味の違いを説明するとき、テの形という用語は必須である。一般の日本人にはこのようなことの説明は必要ない。このような説明が必要になるのは日本語教育の場合と機械翻訳を考える場合である。
(2)日本語は論理的である
もし日本語が論理的でなければ、日本語によるコミュニケーションがとれないはずである。
日本語には日本語の論理がある。日本語ばかりでなく、それぞれの言語にはそれぞれの言語の論理があるのである。
外国語を学ぶということは、自国語と違う論理を知ることである。自国語の論理を捨てて外国語の論理に合わせるということではない。
(3)日本語はあいまいではない
日本語はあいまいな言語だ、と思っている人は、日本語では一々主語を言わないことをその理由として挙げる。そして、日本は島国だから主語を一々言わなくても分かり合えた、という理由づけをしている。が、これはおかしい。
日本語は、あいまいに言いたい時にはあいまいに言えるし、厳密に言わなければならない時には厳密に言える言語である。日本語では“主語”をはじめ言わなくても分かることは省略する。言わなくても分かるのは、そのルールがあるからである。「島国だから」ではない。島国でも主語を言う言語もあるし、島国でなくても主語を言わない言語がある。
(4)なぜ以上のような誤解が生じたのか
では、なぜ日本語は体系的ではない、論理的ではない、あいまいだと思われてきたのか。
日本人は英語を外国語として習う。一般に外国語として習う言語は体系的に教えられる。それで、英語の文法は体系的だと思うようになる。日本人は日本語を外国語として習うわけではない。それで、外国語のようには体系的でない、と思ってしまうのである。
「英語ではつい物事をはっきり言ってしまう」という人がいる。「言ってしまう」のではなく「はっきりとしか言えない」のである。英語にもいろいろな婉曲表現があるが、それが使えないだけの話である。
婉曲表現というものは、初歩では教えてくれないから、使えないのは当然であるが、それを外国語は物事をはっきり言う(あいまいではない)、日本語はあいまいだ、と思ってしまうのは錯覚にすぎない。

《結》

・・・文献・・・

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