拝啓 若い医師達

エッセイ

今、我が国では救急外来が疲弊していることは、諸君が聞き及んでいるところであります。しっかり、現状ではしたくてもできないという苛立ちや医師としての責任をはたせていないジレンマにおありでは・・と思う一方、優秀であるがために、辛い現場で自らが傷つくのを回避しておられるのではと私は危惧しています。救急外来の重要さについて、一筆、申し上げたいことあり、一筆

私が20年も前に経験したことだが、救急当直のある晩、60歳位の女性が腹痛のために救急車で搬送されてき  た。「痛い、痛い。先生、助けて。死んでいく、死んでいく」と私の白衣の襟をつかんで、そのまま意識を失い、その後数分後、亡くなった。
原因が分からず、家族の承諾をえて解剖し、腹部大動脈の破裂だと診断でした。心の中で、「致し方なかった。いかなる手を尽くしても救命はむりだった」と自らに言い聞かせた。しかし、今だに私の心には、別の問いかけが残っている、「本当にそれでよかったのか」と。御本人に「仕方なかったんです」と言えるのかな?と。
同じような記憶がさらに蘇ってくる。息をしていない乳児とその母親のこと。「何の権利があって、この世はこの母親から赤ちゃんを奪うことができるのか」。可能性に満ちた二人の青年がオートバイ事故で亡くなったが、駆け付けた両親の叫び声。
一方、救急は人間社会の広さ、深さをいろいろ教えてくれる場でもある。救急車をタクシー代わりに平気に利用し病院に着くや姿をくらました中年男性。痙攣発作を見事に演じて、入院したヒステリー患者。
救急外来とは、人間の生々しい現実を知る最前線と言える。それに直面させられた時、私達は、無力な自分を突きつけられ、時に打ち砕かれる。救急外来とはそういうところ。
自分が無力さを突きつけられることに、諸君は慣れていないかもしれない。しかし、魚にたとえれば滝のような川を遡上してきたのであって、諸君は体力も知力も確かにあると証明されている。自信と勇気をもって、一ヶ月のうち、1回でも2回でもこの前線に立っていただきたい。
病院にお願いしたいのは、夜間の救急外来をしたなら翌日の完全休日。私は、若い先生たちの身体の休息のためより、そうした「現実」をしっかり受け止めていただくために、そうお願いしたい。

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