最近、英語が巨大な怪物のように思えてきた。
日本語、中国語、英語を話す中国のある女性歌手が、ラジオでこう語っていた、「話す言葉で性格が 変わる。中国語の時、捲くし立てる元気さがあり、日本語では物静かで礼儀正しくなり、英語では明快で率直になれる。」
言語と国民性とは、密接なつながりがある。米国が多民族国家でありながら、強大な国になれたのは、肥沃な国土と、まさに英語という言語のためだったのではと思う。
英語による会議中、争点は常に明快に表現される。結果を尊重する考え方をするので、経済的、軍事的、科学的に発展できたのかもしれない。
「人間世界とは何か」というテーマがあるなら、各民族について各々の言語で記されねばならない。逆に、多様な人間性を詳細に記すのに、それだけの言語が必要だったとも言える。
現在、インターネットやグローバリゼーションによって英語は、世界共通語の立場をさらに強くしている。英語で表現できない世界は、過小に評価されていく運命だ。
明快さや実務的な価値が尊重されるあまり、食いつぶされていく多くの文化や価値観がある。そして、それは、「人間世界」の貧弱化、矮小化を意味すると思う。
(朝日新聞に掲載)