歩きつつ重荷 下ろす高齢者

エッセイ

終日臥床にある82歳の母親を見舞った。遠方にいるため、年に数回しか会えないが、会うたびに母そのものが、少しずつ失われてきたのを見てきた。
骨折して車椅子になったとき、旅行好きであることをやめた。目が不自由になったとき、書道をしたことを忘れた。そして私が誰かわからなくなった今回、息子との会話をやめた。
そして今残されているのは、土の器にやどされた生命そのものだと思う。だがそれは、圧倒的に大きかった母の存在のごく一部にしか過ぎなくなってしまった。
高齢の方達を見ていると、彼らの世の去り方は、歩きながら荷物を一つ一つおろしていくのに似ている。 長い人生で積み上げたものを一挙にかなぐり捨てるには、本人も家族にとっても大きすぎるのだろうか。
親戚や家族、友人達の記憶。生き生きとしたコミュニケーションを楽しむ能力。散歩にでて草花の香りを味わえる情感。これらを彼らは私たち家族が気づかないうちに、そっと手放している。
土の器を死をもって死とするには、最期の数年間、何かが足りないように思える。母が私を認識しなくなったとわかった日、実質的な別れの時が来たと思った。私をこの世に送り出して下さったことに、感謝の祈りをささげた。
我々は高齢者と会って、まだまだお元気だと直感しても、それは単に土の器の元気さから憶測していることが多い。

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