火を見る機会失った現代人

エッセイ

友人達と山でキャンプをした。薪の炎を見ながら、話は少年犯罪から古代人の気持ちにまで及んだ。
大昔からごく最近の時代まで、人間は囲炉裏を囲み、そして炎を見つめながらいろいろ考えてきたと思う。子供達は、暖かさや美しさ、不思議さを。大人は、家族団欒の平和を感謝しつつ、山をも焼く尽くす怖さを。老人はそれが与えてくれた恩恵と最期に焼かれるという現実などを。
皆が押し黙って火を見つめ続ける時間が確かにあった。しかし、現代人はほとんど、そのような機会がなくなった。明かりは電燈であり、火はガスコンロの青白い炎である。
昔からさまざまな信仰で、火は特別な存在だった。たとえば聖書には「私(神)は燃える火です。」とある。巨大な火の塊ではなく、ごく日常の小さな炎の明かりの中に、人々は絶対的存在を身近に覚えてきたのかもしれない。
我々は、火と向き合うことがなくなるにつれ、自分が罪ある者、弱き者であるという認識が希薄になってきてはいないだろうか。少年犯罪を憂える前に、多くの現代人が、自分はいずれは焼かれる者として、もっと慎み深くなることを学ぶ必要があるのではと思った。
(朝日新聞に掲載)

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