我々の多くは老いても、痴呆にはなりたくないと願っている。しかし、高齢で痴呆症のない方々と話をしていると、しばしば次のような言葉を聞く。
「生きる事に、ほとほと疲れました」、「この年になって、何のために生きねばならないのか」。
痴呆にならずに生きぬくことも、きっと容易ならざることなのだろう。老いの問題について考えているうちに、私は、痴呆症が人生を締めくくる一つのライフスタイルのように思えてきた。
通常、老いても痴呆でないことは、好ましいことのように思う。しかし、彼らが直面する現実がある。たとえば、記憶が保たれるために、積み重ねた苦しみや悲しみも、忘れることができない。世の中のさまざまな矛盾や不合理を見ぬいても、沈黙することしかできない。老いのどうにもならない問題を、痴呆がないが故に、認知してしまう、など等。
老いて元気な方達もいるが、一般的に加齢によって、すべての身体機能が低下する。体力の衰えとともに、運動不足になり、足腰の筋力は低下する。脳神経細胞のネットワークは衰えて、視覚や聴覚からの入力も激減するので、廃用性にも劣化する。齢を重ねるにつれて洞察力が増すというのは、ほとんど幻想にすぎない。
一方、健常な社会人に目を向けると、彼らも実に多くの問題に囲まれている。それらへの対処を考えると、痴呆症ではないが、彼らにも同様な記憶・認知障害があることがわかる。
我々社会人がもつ問題とは、職場や家庭内の些細なもめごとから、地球の温暖化、人口爆発、食料問題、テロの恐怖などの国際的な難題まで、数え切れない。
我々がもしこれらに真摯に対するなら、限りなく噴出する問題の中で、日々を暗く辛いものにするだろう。そこで我々は一部の問題に積極的に取り組む一方、感度を下げて、他は問題としないという処理方法をとっている。
たとえば、無関心になったり、解決能力がないというのを理由にする。また自らにとって都合が悪い場合、自身の記憶中枢から情報を削除し、意図的に自分が認知できないようにすることもある。
ほとんどの現代人が、私を含め日常生活で頻繁にこの手法を使っている。認知できないのではなく、認知しないこのスタイルは、疾病ではなくて合目的かつ、積極的な認知障害と言えよう。
老年痴呆症の患者は、喜びや希望を口にすることがないが、生きてきたことへの愚痴や、境遇を嘆くこともない。痴呆症は自ら選択して罹患できるわけではないが、人生を締めくくるひとつのライフスタイルとして、選択できればいいと思う。
老年痴呆の患者さんに、私は一言お伝えしたい。「認知障害という極めて人間らしい方法で、人生を総括されるのですね。生きてきたことを後悔せず、またこれからも生きることを疎まない。それだけのために、蓄積した一切を捨て去るように私には思われます。あなたのこの潔さと生きることへの肯定に、心からの共感と敬意を奉げたいと思います。」