自分の最期の意志記す責任

エッセイ

総論より、各論から読んだ方が理解しやすいことがある。
思えば私達は「人間」という難解な書物を、自分という各論から学んでいる。時々、「これが人間なんだな」と、総論の一部を知らされる。しかし、ほとんどの時間は、自分という各論と格闘し、他人のものまで読みきれずにいる。
総論のページを開くのは、きっと老いてからのように思う。しかし難解な総論を老年期になってから読んで何になるのだろうか。もしや人間に関するすべてが各論であって、総論は不要かもしれない。
臓器移植法改正のため、「脳死を死とする」ことについて論議されている。いずれ決着し、新たな法が施行されるだろう。だが私達はそれを、総論にふさわしい標準的な死であると見なすことが多いと思う。法は時代や社会によって変るものであり、これも各論の域を出ないのではないか。
延命や延死の問題で家族や主治医に迷惑をかけたくない。心からそう願うなら、どのような法が施行されようと、自分の最終章は自分で書き上げ、自らの意志を明確にさせておかねばならない。
(朝日新聞に掲載2005/5/31)

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