閑古鳥の子育てに学ぶ

エッセイ

昨年の春、わがクリニックの中庭に野鳥が巣をつくった。何の鳥か、県文の図書館に行き、図鑑で調べてもわからなかった。すると、誰が言うともなく「閑古鳥かな」が、「それにちがいない」と決まった。閑古鳥が巣まで作るとは予想しなかったが、野鳥が巣を作ってくれるとは、光栄なことと思った。ともあれ、私はひとツガイの野鳥夫婦の巣作りから、子育て、巣立ちをつぶさに見ることになった。
親鳥は、育児だけに専念して餌を運んだ。10~15分間隔で親鳥は口ばしにエサをくわえて帰ってきた。周辺を警戒してか、はなれた軒先から入って小走りに巣に戻った。4羽のヒナもよく食べた。親鳥が巣から飛び立つときは決まって子供達の白い糞をくわえていた。約4ヶ月後、巣立ちの日、3羽は5分ほどで飛び立ったが、1羽は中庭に舞い落ちて、地面を走り回っていた。そこを2羽の親鳥が周囲を飛び交い、まるで「危険だから、早く飛び上がりなさい」と叫んでいるかのようであった。それから1時間程して見かけた光景は、実に興味深かった。小鳥と一羽の親鳥が向き合ってじっとして動かないでいたのだ。きっと、親鳥は母親であったのだろう。生物の社会は人間も鳥達もおなじなのだなと、身につまされる思いだった。しかしその子鳥も、2時間ほどして舞い上がって行った。
静かになった中庭で、私は何ゆえに親鳥は子供達をこの大空に送り出したのかと思った。きっと「お前達の生きる場は、狭い巣ではなくて、この広い大空なのだよ」という願いからだろう。大空がいかなる所かを知っているからこそ、真剣に、必死に、かつ自信をもって押し出したに違いない。
では人間の場合、鳥の「空」に相等するものは何だろうか。それはきっと「知の世界」に相違ないと思う。そこで幸せになってほしいために、親は必死に育てあげるのだろう。
しかし、この世に我が子を送り出すことに、私はいくばくかの不安を抱く。自由意志をもつ子供達は、自ら思考して行動する。限りない好奇心が、人間の英知を拡大してきたとして、未知の空間に飛び込む者もいる。もしそこから帰還できたなら、知の空間の拡大に貢献し、評価されることもあろう。しかし、他方で犯罪と堕落の空間を旅したものとして負の評価を受ける場合もある。一人で辺境を飛び続けていて、多くの人骨を見て、自分も帰ることができないとわかることもあるに違いない。生きて帰ることと引き換えに真理を知る者もいる。ほとんどの自殺者は、孤独の空間をさ迷い、引き返すことができなくなった方達だ。
親が子の幸せを切に願うなら、親は何を子に託すのだろうか、また何を強いるのだろうか。そこで思い出されるのは、旧約聖書、創世記第2章だ。「神はアダムに命じられた、あなたは園のどの木からでも取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。」
この命令に逆らい、アダムは禁断の果実を食べ、神に対して罪を犯した。この章は、「原罪」とは何かを知る重要な部分であるが、私は今まで「なぜ、善悪を知ってはいけないのか」充分には理解できないでいた。私は成長期にある3人の子供の親であるが、閑古鳥の子育てを観察して、なぜ神がアダムにそのように警告されたのかを理解した。
子供の幸せを願う親達は、神がアダムに警告したのと同様に子供達に警告する。「いかなる知識の実も取って食べてかまわない。しかし、毒のある知識は食べないように」と。「きっと子供達はこの世の裏表を知りたいと願うだろう。しかし悪に裏打ちされた善など、知らなくてもいい。過度な好奇心の生き方を選択すると、あなた自身と家族を危険にさらすことにもなる。家族をつらい状況に置くことになっても、なお追求するに値する知の世界はない。誰も知らない洞穴には、決して足を踏み入れないように。暗闇の空間に飛び込まないように。これらの戒めを、苦い経験をしないで理解する者になってほしい」。
ダビデの祈りに、「わたしはあなたの戒めを守るのに、すみやかでためらいません。たとい、悪しき者のなわがわたしを捉えても、わたしはあなたの掟をわすれません」とある。我が子らも状況によっては自らの意志を捨て、このように祈ることができるなら、私も閑古鳥の親と同様に子供らを信頼し、知の大空に解き放つことができると思う。

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